なるようになる
なるようになる。
モノゴトは必然の成り行きがある。
いろいろな場面で「なるようになるよ」と自分にも他者にも気軽に使っていた言葉だった。
しかし、先日ある書籍を読んで、実は前提に濃密なプロセスがあってこそ到達する境地の言葉だということを知った。
その内容を紹介したい。
なるようになるとは、投げやりに生きることでも、楽観的に生きることでもありません。先のことなんてわからない、ということでもありません。
「なる」という言葉にはいろいろな使い方があります。
完成する、成就する。前とは違う姿になる。なりゆきで「なる」のではなく、「完成する」「成就する」までにどれだけ濃密なプロセスがあるでしょう。そのプロセスがあるからこそ、結果がどうあっても『実り』がある。
自分が積み重ねたそのプロセスを信じられたら、あとは宇宙に任せてしまう。どのような形で『実り』がもたらされるのかわかりません。『実り』とは思えないものかもしれない。でも、それすら成長の糧にできることなのです。
わたしたちはひとりで生きているわけではありません。宇宙に抱かれながら、他人の力にも支えられながら生きているのです。そのことを実感できると、何事にも頭が下がる。そして自分が受け取ったものの有り難さと尊さに思いが至ります。
「なるようになる」とは、そのような深いプロセスの上に到達する境地なのです。
「こころ歳時記」吉元由美著
ディスカバー・トゥウェンティワン 2012
「自分が積み重ねたプロセスを信じられたなら」
まず自分ができることを全力でやるということ、そしてそのその自分がやったこと・やってきたことを信頼すること。
そこで初めて「あとはお任せします」ということになるわけだ。
これを読んで、表現できないような強い衝撃を受けた。
わたしはこれまで「自分の都合の良いように」この言葉を使ってきたのだ。
まるで自分自身に言い訳するかのように。
楽だもんね、努力もしないで、なるようになるって言っていれば。
でも、自分の可能性にチャレンジせずに、これは自分を軽く扱ってきたということでもあるんだな。
ごめんなさい、わたし。
昨日、ある講座に参加する予定でいたが、家を出るときにこの時刻では遅刻確実だということに気がついた。
わたしは、仕事の打合せも友人との待ち合せも映画・ワークショップなどあらゆるものの開始時刻の20分前くらいには必ず会場あるいはその付近に到着するようにしている。
それが、昨日はなぜか自分のなかの時間感覚がズレていた。(新月の影響か?)
コーディネーターにはすぐに連絡を入れた。
するとゲスト講師の舞(日本舞踊)が最初にパフォーマンスされるという。
わたしは決心した。
走るなりなんなりして急ぐだけ急ぐ(自分にできることはやる)、そしてあとは天にお任せします!、と。
そういう時に限って、2回も電車乗換をする。乗換駅では、階段を一段飛びで駆け上がり(無意識だとできるんだ!)、疾風の如く駆け抜けた。
そして会場は駅まで徒歩20分という距離。
駅に到着したときは開始8分前。
バスもあるようだったが、即断して走ることに。
家を出てから最終の駅に到着するまで時計は一切見なかった。
そして電車に乗っているときも、走っているときも、不思議と焦りは全く感じなかった。
走っているときなんて、自然と顔に笑みが広がっていた(相当不気味なヤツだと思われたに違いない)。
自分がいまできることを全力でやるって気持ちいいー!と感じていた。
(そもそも遅刻しそうな時間に家を出たことをすっかり忘れている)
そして、パフォーマンスが始まる前に間に合った。
会場に到着したときは、ゲスト講師の挨拶の最中だった(12分間で走りきった!)。
なるようになる、を実感したエピソード。
えっ?それかい??と突っ込みを入れられそうだけど、わたしにとっては吉田さんが言っていた「なるようになる」を体感したのだ。
(深いプロセスはなかったけどね…)
自分ができることを全力でやった、という充実感があれば、どんな結果も大丈夫、自然と受け入れられると感じる。
あなたはどんな時に「なるようになる」という言葉を使っている?
カラダとココロを元気にするプログラム
「人のために」の言葉はもう使わない
以前より感じていたことを、正面からバン!と真実を突きつけられた。
自分がこれまでやってきたこと、そして新しく始めたことを他者に説明するとき、
*自分ができることで、途上国の人々の生活のより良い変化に貢献したい、とか
*他者がよりしあわせを、元気を感じられるように、とか
「人のために」のニオイをプンプンさせていた。
それを口にしながら、本当かわたし?とココロの奥で突っ込みを入れているもう一人の自分がいた。
言っていることは決して噓ではない。
でもさ、まず「自分がやりたいから」「自分がそれを好きだから」やっているんだよね。
それでそのやっていることが結果的に他の人のためにもなったら、これほど嬉しいことはない。
そんなことを感じていたここ数年、先日ある記事が目に留まった。
「『世のため人のため』という人間に限って、自分のために行動している」
慈眼寺の住職・塩沼亮潤氏
世の中を変えよう」と思っても、明日とか急にはなかなか変わらないと思います。「なぜ千日回峰行、こんな行をしたんですか?」と言われて、10代のときによく言っていた言葉は「世の中のため人のために、私は精一杯修行をしたい」ということでした。
ある日、そういう言葉をおそらく耳にした師匠が、お茶を飲んでいるときに笑い話で「坊さんなんていうのは、世の中のため人のためということはあんまり言わんほうがええな」と。
「世のため人のためというのは当たり前なんだ。まず自分自身がしっかりと心身ともに徳のある人間に成長すれば、自然と世の中のためになっている。『世のため人のため』という人間に限って、どこかで必ず自分のためになるような動きをしているものだ。だから人の為と書いて『偽り』と書くんじゃ」と。
そういう「世のため人のため」という大切な宝物の言葉は、心の奥底にしまって。そして、いろんな人との調和ですね。「自分だけが」ではなくて。自分自身もしっかりする。そして、しっかりした自分とみなさん、どんな人とでも相和して調和をしていく。この自律と協調性が大切だと思います。
志が強すぎて自我が強くなって孤立する場合がありますので、そこだけは十分に注意をしていただいて。「調和」という言葉を大切にしていただきたいと思います。
「人の為と書いて「偽り」と書く。」
ココロの奥深くまでしっかりと響きわたった。
そしてとてもスッキリとした。
そう、わたしはもう「人のために」という言葉を使わない。
自分がやりたいからやっている、そのプロセスのなかで、その結果で、周りの人がちょっとしあわせに感じてくれることが起きたら、わたしも嬉しい。
わたしが幸せに感じていたら、きっと周りにも幸せな気持ちが伝搬していくと信じている。
(実際にそう感じるときが多々ある)
だから、わたしは自分のココロとカラダが心地良くしあわせ状態でいることを心掛けよう。
カラダとココロを元気にするプログラム
声に出して感謝する
この8月もたくさんの素晴らしいご縁があった。
その中でとびきりパワフルで魅力溢れる方から教わったことを、毎日楽しく続けている。
それは、自分の大切なパートナーであるカラダに感謝すること。
それも声に出して。
機会あるごとにカラダに感謝をしている人は多いと思う。
例えばケガをしたときなどは、普段当たり前だと思いがちな、「カラダが動いてくれること」にとてつもない感謝の念を感じずにはいられない。
それを日常的に、声を出してカラダに感謝しようという提案。
「声に出す」というところがポイント。
カラダの60兆個の細胞がその感謝の言葉を聞いて、細胞のエネルギーも上がるという。
うん、確かに感謝をしている自分も感謝を受け取っているカラダもすこぶる調子が良い。
深酒をしてしまった翌朝もスッキリ早朝に目覚めることができるのも、この最高のパートナーであるカラダのおかげだとつくづく思う。
毎晩お風呂に入ったときなどに、自分のカラダに感謝の言葉をかけてみてほしい。
それをまず一週間続けて変化を感じてみて!
カラダとココロを元気にするプログラム
カラダのすぐれた能力
(2015.07.31 Blue Moon taken by Baba, Moab)
今朝久しぶりにチェックしたFacebookは、満月の写真であふれていた。
ユタ州に住む大好きな友人が写したBlue Moonが秀逸だったので、この美しさを皆さんにもお福分け。
わたしは普段自宅でも出先でもMacbook Airを使用している。
集中して作業をやっていると、背骨が丸まっていて首を突き出した姿勢になっていることが多い。
作業用に度数の低い眼鏡をかけて作業しているせいもあって、画面を覗き込むように首が変に前に出てしまっているのだ。
カラダに負担のない姿勢をクセづけしよう、といろいろ試みてきたものの、うまくいかない。
結局、自宅で作業するときには、外付けキーボードとMacbookを持ち上げてモニターを目線の高さに持ってくるPCスタンドを購入した。
快適この上ない。
この件を通して、わたしはカラダというパートナーの優れた能力を改めて考えた。
カラダのクセって、自分が何度も行っている動作や行為を、カラダが優れた学習機能を駆使し、次第にそれを自然(?)とできるようにカラダがしてくれるもの、のように思う。
携帯などで入力しているときに、頻繁に使用する単語をすぐに出してくれる「予測変換」機能を想像してもらうとわかりやすい。
カラダにはすごい柔軟性、受容力もあるから、カラダ的には負荷がかるような動作や行為でも行えるようにしてしまうし、その閾値が大きいのだろう。
だから、「自分」が自覚するようになる頃には、相当に負荷が積もり積もって大変な状態(痛みとかね)になっていることが多い。
カラダは人生の大切なパートナー。
月に一度、マッサージや整体など受けるのもいい。
でもやっぱり「自分」で日頃のケアをすることが一番大切。
「わかっちゃいるけど、なかなかできないのよね〜」という声も聞こえてきそうだが、それは表面的に頭が「常識的なこと」として伝えられていることを知っているだけ。
あなたがこの世で何かを実現していくことができるのも、パートナーであるカラダが一緒にいてくれるから。
夢や願いを叶える、自分のやりたいことをやる、自分を成長させる…
でもね、その前に大切なパートナーのカラダとじっくり対話することをお勧めしたい。
まずはどんなやり方でもいいから、じっくりと自分のカラダに意識を向けてみて。
いままで無視し続けてきたのなら、カラダの声はなかなか聞けないかもしれないけど、根気づよく続けてみることが大切。
カラダの素晴らしさをたっぷり堪能してみよう!
カラダとココロを元気にするプログラム
続けていくこと
続けていくことのパワーはすごい。
あることをコツコツと続けてきたことでいつのまにか自身が大きく変化する、というパワーだ。
知り合いでそのような人は多いが、特にここ1ヶ月の中で驚いたのが2人。
ひとりはヨガのレッスンを自分に無理のないペースで数年通っている知人。「岩のような」という形容詞がピッタリだった彼女のカラダの状態が、いつのまにか見事な柔軟性のあるカラダの持ち主に変わっていた。
動きを見ていると、体幹もしっかりとしていて、カラダのなかに軸がある。
カラダの状態が変わって、ココロの状態も変化したのだろう。生き生きとしている。
もう一人は、いろいろなことにチャレンジ・学習する人だが、学習する事柄その一つひとつを3年とか8年とかとにかく長くコツコツと熱心に続けるのだ。
知り合った当時から技術の高い人だったけれど、その人のこれまでをじっくり聞く機会が最近あって、その人の持つ並外れた高い技術力や包括力、洞察力の裏にある努力を知った。
その人は本業で多くの人に求められる人材となっている。
そしていまもいろいろな学びを続けている。
この2人に共通していたのは、続けているプロセスが面白いと感じていること。
最初は全く変化が感じられないかもしれない。でも続けていくうちに半年後あるいは1年後に少しずつ変化が見られるようになる。
そうすればしめたもの!
変化が自信へと変わり、そして続けることでさらに変化が加速していく。
新しい自分と出会っていくという表現でもいいかもしれない。
多くの人がこの変化が見られない(と感じる)最初のときにつまずいて止めてしまう。
わたしもこの最初にやめてしまったという経験を数多く持っているので、その心理はよぉーーーくわかる。
せっかく自分が面白い!と興味を持って始めたことは、なにかしら自分にとって意味があること。
自分が感じる変化がないからといって止めてしまうのはもったいない。
実はジワジワと発酵しているように内側では変化してきているのに自分の感覚で感じられないだけということも。
カラダにいいと聞いたから。健康に良さそうだから。(他言語を)しゃべれるとかっこいいから。
それほど自分は興味を持っていないけど、なんか外の声に勧められて…、というようなものはまず続かないと思っていい。
「…しなくては」という義務感からくるものも続かない。(既にいろいろ経験ずみ…)
自分が結果を性急に求めすぎる「end gainer エンド・ゲイナー」ならば、熟成させる愉しみも覚えよう。
続けることに執着すると返って逆効果。
ワクワク感を持って愉しみながら気長にしていくのがいいんだろうな。
「自分」って自分が思っている以上にすごいから!
カラダとココロを元気にするプログラム
毎日が実験
ここのところ、いろいろと実験をしている。
学んだ知識を実際にやってみよう、ということなので、「アウトプット」「実践」という言葉のほうが適しているのかもしれない。でもわたしは「実験」という響きに対して妙にワクワクするので、好んでこの言葉を使っている次第。
そして響きだけでなく、実際にやっているときワクワクして楽しくてしかたがない。
どんなふうな反応が返ってくるんだろう?
期待した通りの効果が出るのだろうか?
このあとの展開は?
そしてここでまた自分のココロのクセを再認識してしまった。
結果に気がはやるのだ。
どう?どう?それでどうなのよ??はやくーーー!ってな具合。
すぐに結果がわかるのもあるが、時間がかかるものがほとんど。
そのプロセスのなかで、感覚を働かせながら状態やわずかな変化を観察することが大切だということは重々承知している(はず)。
確かにプロセスも楽しい!
でも、せっかちな性質のせいなのか、結果をすぐに知りたい!となる。
アレクサンダー・テクニークでは、わたしのような人を「エンド・ゲイナー (end gainer)」と呼ぶらしい。
エンド・ゲイニング (end-gaining)とは、「結果」に意識がいってしまっていて、現状とこれから起こるべき経過に対して意識がない状態。
だから、ここでもまたインヒビション inhibitionが要諦なんだなー。大切なことだから、何度でもリファーしちゃうよ。
実は、これはインヒビションをカラダにしみ込ませるための二重の実験になっていたりして…なんて感じている。
プロセス自体をもっと愉しむようになれば、出てくるものも更に違ってくるかもしれない。
人生はある意味、壮大な実験の連続なんだろうな。
あなたは何を実験している??
どんな小さなことでもいいから、自分で考えてちょこちょこ実験してみてほしい。
毎日がとっても楽しくなること請け合い!
カラダとココロを元気にするプログラム