「人のために」の言葉はもう使わない
以前より感じていたことを、正面からバン!と真実を突きつけられた。
自分がこれまでやってきたこと、そして新しく始めたことを他者に説明するとき、
*自分ができることで、途上国の人々の生活のより良い変化に貢献したい、とか
*他者がよりしあわせを、元気を感じられるように、とか
「人のために」のニオイをプンプンさせていた。
それを口にしながら、本当かわたし?とココロの奥で突っ込みを入れているもう一人の自分がいた。
言っていることは決して噓ではない。
でもさ、まず「自分がやりたいから」「自分がそれを好きだから」やっているんだよね。
それでそのやっていることが結果的に他の人のためにもなったら、これほど嬉しいことはない。
そんなことを感じていたここ数年、先日ある記事が目に留まった。
「『世のため人のため』という人間に限って、自分のために行動している」
慈眼寺の住職・塩沼亮潤氏
世の中を変えよう」と思っても、明日とか急にはなかなか変わらないと思います。「なぜ千日回峰行、こんな行をしたんですか?」と言われて、10代のときによく言っていた言葉は「世の中のため人のために、私は精一杯修行をしたい」ということでした。
ある日、そういう言葉をおそらく耳にした師匠が、お茶を飲んでいるときに笑い話で「坊さんなんていうのは、世の中のため人のためということはあんまり言わんほうがええな」と。
「世のため人のためというのは当たり前なんだ。まず自分自身がしっかりと心身ともに徳のある人間に成長すれば、自然と世の中のためになっている。『世のため人のため』という人間に限って、どこかで必ず自分のためになるような動きをしているものだ。だから人の為と書いて『偽り』と書くんじゃ」と。
そういう「世のため人のため」という大切な宝物の言葉は、心の奥底にしまって。そして、いろんな人との調和ですね。「自分だけが」ではなくて。自分自身もしっかりする。そして、しっかりした自分とみなさん、どんな人とでも相和して調和をしていく。この自律と協調性が大切だと思います。
志が強すぎて自我が強くなって孤立する場合がありますので、そこだけは十分に注意をしていただいて。「調和」という言葉を大切にしていただきたいと思います。
「人の為と書いて「偽り」と書く。」
ココロの奥深くまでしっかりと響きわたった。
そしてとてもスッキリとした。
そう、わたしはもう「人のために」という言葉を使わない。
自分がやりたいからやっている、そのプロセスのなかで、その結果で、周りの人がちょっとしあわせに感じてくれることが起きたら、わたしも嬉しい。
わたしが幸せに感じていたら、きっと周りにも幸せな気持ちが伝搬していくと信じている。
(実際にそう感じるときが多々ある)
だから、わたしは自分のココロとカラダが心地良くしあわせ状態でいることを心掛けよう。
カラダとココロを元気にするプログラム