カラダがひらく ココロがひらく 自分がひらく

心地良く自分自身でいること、ただそれだけ

マインドフルに食べる

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わたしは以前より改善したいと思っている習性がある。

それは「早食い」。

早食いをしてしまうと、必要以上に食べてしまう「大食い」というありがたくないオマケもくっついてきてしまう。

(もちろん、食べる前、食べた後には、神さま、素材をつくってくれた農家さんや魚をとってくれた漁師さん、料理を調理してくれた調理の方、そして野菜や魚、お米の命への感謝は欠かさずしている。)

 

記憶をたどると、20代のころ仕事の合間に立ち食いそば屋に頻繁に行っていた。(その当時はまだ立ち食いそば屋で若い女性は見かけた事はなかった。いまもか?!)

そして、そこにいるオヤジたちの誰よりも食べるのが早かったのを覚えている。わたしより先に食べていた人より、早く食べ終わり店を出るのだ。わたしの早食いは20代の立ち食いそば屋通いで鍛えられたといっても過言ではないかもしれない。

 

以前、ヨガのトレーニングを受けに1ヶ月バハマカリブ海)にあるヨガアシュラムに滞在した。

そのアシュラムでの食事はこの上なく美味しかった。

セルフ式なので、自分で盛りつける。大量に盛りつけたのにも関わらず、あっという間に食べてしまう。そのことを、アシュラムに常駐しているアーユルヴェーダのカウンセラーに相談してみた。彼女からのアドバイスは、一人で食べること、沈黙しながら食べること、食べているものに全意識を向けて味わって食べることの3つ。

そう、マインドフル(いまここに意識を集中する)に食べることを伝えてくれた。

 

う〜ん、最初の二つは難なくできるが、三つ目は集中が続かない。

途中から意識が食べものから美しいカリブ海の海や空(アシュラムはパラダイス島のオン・ザ・ビーチにある素晴らしいロケーションなのだ!)へ移り、うっとりしているうちにパクパクと食べてしまっている。気づいたときには全て平らげていた、という日が続いた。

 

そんなとき、「あー、あのらくだ使いはマインドフルに食べてたなー」と思い出す。

パウロ・コエーリョの「アルケミスト 夢を旅した少年」に登場する名もない「らくだ使い」のことだ。

私は食べている時は、食べることしか考えません。もし私が行進していたら、行進することだけに集中します。もし私が戦わなければならなかったら、その日に死んでもそれはかまいません。

なぜなら、私は過去にも未来にも生きていないからです。私は今だけにしか興味を持っていません。もし常に今に心を集中していれば、幸せになれます。砂漠には人生があり、空には星があり、部族の男たちは人間だから戦う、ということがわかるでしょう。人生は私たちにとってパーティであり、お祭りでもあります。なぜなら、人生は、今私たちが生きているこの瞬間だからです。

 

外食の際(ランチタイム)、一人で食事をしている人、特に女性は、食べている最中ずっとスマホや携帯電話をいじっている人が多いことに驚く。

たまに読書をしている人もいるが、100%皆食べながら「何かの行為を同時にしている」のだ。

あれはなぜだろう?

とても残念な姿に思えて仕方がない。

 

「ラオ教授の『幸福論』happiness at work」の著書スリクマー・ラオは、その本のなかでマルチタスキング(同時に複数のことをすること)をやめ、一つのことに集中することの重要性を説いている。

20分など短い時間の集中した作業(ひとつのタスク)からはじめ、休憩をとり、また次の20分集中して作業する。

 

マインドフルに食べることは、まず、食べるという行為に集中することから始まる。

わたしも、食事の最初の10分、いや5分!、まずはこの時間集中してゆっくりと味わいながら食べることから始めてみようっと。

(このブログ上で宣言をしておく)

 

先日、NLP(Neuro-Linguistic Programming 神経言語プログラム)の集まりでこの課題(早食い大食い)を取り上げてワークをしたところ、

統合 Integration

慈しむ Nurturance

楽しみ Fun

よろこび Joy

というキーワードが出てきた。

まだこれらのキーワードの意味について深く探究していないが、早食い大食いに対して全く別の角度から見つめることができるかもしれないと期待している。

 

 

 

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